米兵による少女暴行事件に抗議する沖縄県民総決起大会が宜野湾市で開かれてから、21日で25年を迎える。保守、革新を超えた県民の声は日米地位協定の部分的な運用改善や在沖米軍基地返還の日米合意につながった。県議会議長として大会実行委員長を務めた嘉数知賢(かかずちけん)さん(79)=名護市=は「怒りで島が揺れた。ウチナーンチュ(沖縄の人)が団結したときの力は恐ろしいほどに強い」と言葉に力を込める。 【写真】8万5000人が事件への怒りの拳を突き上げた県民総決起大会=1995年 大会の1カ月前、嘉数さんは県議会が全会一致で可決した日米地位協定の見直しなどを求める抗議決議を手に外務省を訪れた。当時の地位協定に基づき米側が容疑者の身柄引き渡しに応じなかったため、県民の憤りはピークに達していた。 上京前、大学の先輩である河野洋平外相(当時)に電話し、直接の面談を申し入れた。「大臣が出てきたまでは良かったが…」。河野氏は「重く受け止める」と述べたものの、地位協定の見直しについては門前払い。「必ず県民大会を開く。沖縄を追い込んだのはあなただ」。嘉数さんは無念の思いをぶつけた。
沖縄に戻り、県議会各会派の代表者を集めた。県民大会のテーマは、地位協定の見直しや米軍基地の整理・縮小。政党代表のあいさつは省略するよう提案した。「政府と米軍に最大のインパクトを与えるため、イデオロギー抜きの怒りをぶつけたかった」 大会当日、会場の海浜公園に向かう県民の列は途切れることがなかった。8万5千人(主催者発表)が集まり、本土復帰後、最大規模の抗議大会に。当時知事の故大田昌秀さんは少女を守れなかったことを謝罪した。「軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください」という女子高校生の決意表明に会場は震えた。嘉数さんは「悲しさと憤り…。聴衆のまなざしは忘れられない」と振り返る。 これを機に日米両政府は「好意的配慮」により、起訴前に身柄引き渡しに応じる地位協定の運用改善に合意。翌年には米軍普天間飛行場(宜野湾市)など米軍基地の返還でも合意した。 大会後、嘉数さんは自民党の政治家として衆院議員になり、政務次官や政務官を務めるなど政府の一員として沖縄の基地問題に取り組んだ。しかし、地位協定の抜本的改定は実現しておらず、普天間飛行場の返還についても現在、名護市辺野古への移設を進める政府と、反対する県との溝は深まるばかりだ。
改定すべきだと考える地位協定は「国と国の利害のぶつかり合い。なかなか難しい」。米軍基地の県内移設には反対だが、普天間飛行場の返還には「辺野古移設が唯一の解決策」とする政府を支持する。一方で、時代の変化も感じる。 共に仕事をした故橋本龍太郎氏や故梶山静六氏ら、沖縄に理解がある政治家がいた時代と今。「近年の政府には、沖縄への情熱が感じられなくなった」と受け止め、そして、くぎを刺す。「二度と25年前のような大会を開かなくて済むよう、政府はより真剣に沖縄と向き合ってほしい」 (那覇駐在・高田佳典)
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